近代サーフィンの父【デューク・カハナモク】の生涯と功績!サーフィン映像も!

多大なる功績を残した人物に光を当てる【サーフィンレジェンド特集】。今回は「デューク・カハナモク」。

2020年開催の東京オリンピックで、史上初めてサーフィンが正式競技として認められることとなりました。世界中のサーファーたちが喜び、日本人サーファーにとっても非常にやりがいと誇りを感じられることとなったわけですが、近代においてサーフィンを世界に普及したデューク・カハナモクという人物をご存知でしょうか。

デューク・カハナモクは、ハワイで生まれた伝説的なスイマーであり、そして現在のサーフィン文化を世界中に広めた人物です。ここではデューク・カハナモクについて、その生涯や功績などをご紹介していきながら、彼が残した名言などについても触れています。ぜひ、サーフィンというスポーツに興味を持ったのであれば、このデューク・カハナモクについて知っていってください。

デューク・カハナモクは近代サーフィンの父

デューク・カハナモクは、1890年ハワイで生まれたスイマーかつサーファーで、サーフィンを含めたハワイの海洋文化を世界に普及させた第一人者です。分かりやすい功績を並べるとすると、ハワイ出身者で初めてのオリンピック金メダリストであり、水泳選手として十数年間に渡って世界のトップに君臨し続けた実力者でもあります。

幼い頃からサーフィンやカヌーといった競技に触れ、現在におけるロングボードを得意としたサーファーでもあったのですが、デューク・カハナモクが生まれた頃はまだ世界においてサーフィンが宗教上の理由などで弾圧される対象でした。そんな時代背景があった1900年前後に、サーフィンの魅力を世界中に伝え、ある意味「解禁」させたのがこのデューク・カハナモクです。

水泳選手としてオリンピックにアメリカ代表として出場し、その類まれなる競泳力で金メダルを取ると、瞬く間にハワイを含めアメリカの英雄となったデューク・カハナモク。世界各国の水泳大会に招待されては、その土地でサーフィンのエキシビジョンを披露して、サーフィンの素晴らしさを世に広めようと活動を続けました。

その結果、古くから続いていたサーフィンを抑圧しようとする宗教的な力がなくなっていき、世界中でサーフィンが親しまれるようになっていったとされています。こうして、ハワイの英雄は世界中のサーフィンを愛する人々の英雄となっていき、「近代サーフィンの父」と呼ばれるようになりました。

ちなみにその偉大な功績はアメリカ本土でも認められていて、2015年8月24日にはデューク・カハナモクの生誕125周年を記念して「Google」検索エンジンのロゴマークに、デューク・カハナモクの似顔絵が使われたほどです。

デューク・カハナモクの生涯

それでは、近代サーフィンの父と呼ばれるデューク・カハナモクの詳しい生涯について見ていきましょう。

生い立ち

デューク・カハナモクは1890年8月24日に、まだハワイ王国だったホノルル・ハレアカラで誕生しました。ワイキキビーチの西側で生まれ育ったデューク・カハナモクは、自然のうちに波と戯れるようになり、母親からも「決して水を怖れず、可能な限り遠くにまで行ってごらんなさい」といった教育方針で育てられたとされています。

ちなみにデューク・カハナモクのミドルネームは「パアオ」といい、これは南ポリネシアから後にハワイの宗教となる信仰をもたらした実在する人物の名前に由来しているようです。元々、両親が共に生粋のハワイ生まれハワイ育ちということもあり、純血かつその後の功績からも、デューク・カハナモクにはぴったりのミドルネームだったのではないでしょうか。

ビーチボーイ時代

海と一緒に育ってきたデューク・カハナモクは、高校卒業後にビーチでサーフィンの腕前を観光客に披露をして日銭を貰ったり、海の清掃などをして金銭を得る「ビーチボーイ」として生活をすることになります。

このときに、一緒に活動していた仲間と共にアウトリガーカヌーのチーム「フイ・ナル」を創設したというのも、彼の功績のひとつと言えるでしょう。(チームからは、「チャールズ・ナイノア・トンプソン」といった海洋研究における重要な実績を残した人物を輩出)

こうして、ワイキキビーチで生活をしていたデューク・カハナモクの人生を変えることとなったのが、1912年のストックホルムオリンピックです。

オリンピック選手時代

1896年から開催されることとなったオリンピックで、アメリカはヨーロッパに対して水泳競技で遅れをとっていました。そこで、1898年からアメリカの準州として合併をしたハワイに、優秀な人材がいないかということで派遣団がハワイへと送られます。

オリンピックに出場できるレベルの選手を探しに来た派遣団によって、ホノルル港で競技会がおこなわれたわけですが、そこに参加していたのが当時21歳だったデューク・カハナモクです。競技会で圧倒的かつ世界記録を超えるタイムをたたき出したデューク・カハナモクは、すぐさまにアメリカ代表の座を獲得することとなり、翌年に迎えたストックホルムオリンピックでは100メートル自由形で金メダル、団体でも銀メダルといった成績を残します。

その4年後のオリンピックは第一次世界大戦の影響で中止となるものの、1920年のアントワープオリンピックに出場したデューク・カハナモクは100メートルで2連覇を達成して金メダルを獲得。さらに800メートルリレーでも金メダルと、生涯で3つの金メダルを獲得することとなりました。(オリンピックでの水泳競技では、次の1924年パリでも銀メダルを獲得)

引退後

34歳で迎えたパリオリンピックでは、3連覇とはいかなかったものの、20代から数えて10数年に渡って世界一のスイマーとして第一線で活躍を続けたデューク・カハナモク。引退後はホノルルの保安官へと職を移し、市内の平和を守ると共にハリウッド映画などにも出演をしています。

その偉大な功績を称えた作品は数多く、また世界に対して影響力のある人物として自分自身でもサーフィンを世界中に広めようと若いサーファーたちと尽力をしました。結果として、現在のように世界中の人々がサーフィンを楽しむ環境やマインドが構築されていき、サーファーたちからは「近代サーフィンの父」として尊敬されるようになっていったというわけです。

デューク・カハナモクの名言

こうして偉大な功績を数々残していったデューク・カハナモクですが、彼から語られる言葉には名言と呼べるものも多いので、サーファーのみならず色々な方々へ向けた金言としてご紹介していきます。

「ハワイはアロハがキーワードな場所、どんな人にもアロハな心で接し、友情が調和した場所だと世界の人々に伝えよう」

ハワイスピリットを感じさせる、優しい気持ちが詰まった言葉です。

「最高のサーファーとは、もっとも楽しんでいる人のことです」

常にポジティブな意識を持ちたいものです。

「大丈夫、君の波がいつか来る」

いまは良い波(チャンス)が来なくても、いつかはその時が訪れるというハワイの人らしい一言。

こうしてみると、やはり緩やかで寛大な精神を感じられる言葉が多くのですが、最後に海と一緒に生きたデューク・カハナモクらしい一言もどうぞ。

「海から出たら、僕は何者でもない」

まさにサーフィンやカヌーといった、海の文化を大切に生きてきた人の一言といった印象です。

関連記事:心に染みるサーファーの名言10選!あのレジェンドの言葉も!人生のヒントに!

デューク・カハナモク像はハワイのどこにある?

ハワイの英雄となったデューク・カハナモクは、その後親善大使としても活動をおこない、1966年の4月26日に63歳で生涯を終えました。その功績を称え、クヒオ・ビーチには銅像が建てられています。場所はハイアット・リージェンシーホテルからすぐ近くでもありますので、ぜひ興味を持った方は訪れてみてはいかがでしょうか。

アドレス:2424 Kalakaua Ave.Honolulu

デューク・カハナモクのサーフィン映像

貴重なデューク・カハナモクのサーフィン動画がこちらです。動画は彼の功績を紹介する内容でサーフィンをしている映像が含まれています。

まとめ

水泳競技での多くの実績と、近代サーフィンの普及という大きな功績を残したハワイの英雄デューク・カハナモクについてご紹介してきました。

ハワイで生まれ育ち、誇りと親愛をもってサーフィンの楽しさを世界中に伝えたデューク・カハナモクは、サーファーにとってもっとも尊敬する人物のひとりです。

没後50年以上経って、サーフィンがオリンピックの正式種目となったわけですが、きっとその様子を空の上から眺めているのではないでしょうか。

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